仕事帰りの電車
抱っこひもに赤ちゃん、ベビーカーに2~3歳くらいの男の子を連れた女性。
ベビーカーだったので、たぶん空いている各駅電車を選んだのだ。
ただ、席はうまっている。赤ちゃんを抱っこしていると、座ると怒る“暴君赤ちゃん”の為に立っていることはよくある。私も親切に対してありがたくも、断ったことがある。今日はベビーカーのお兄ちゃんもいたので、さすがに大変だろうと思い声をかけた。
私:座りますか?
👩👦👦大丈夫です。
私:本当に?大丈夫?
👩👦👦はい。大丈夫です。
私引き下がる。(弱っ)
お兄ちゃん動き出した。赤ちゃんも声をだし始めた。
もう一度声をかけようか悩む。
悩んでいるうちに、反対側の席があいて、そのお母さんは一駅だけ座った。
すぐにまた、立ったけど。
やはり、電車でベビーカーを押さえながら立つのは安定しないし、疲れるよね。
何て言えば良かっただろう。
・始めに断られたときに、“疲れたら声をかけてね”と言えば良かった。そもそも、大丈夫?って言い方、センスない・・・。
・途中の駅でも声をかければ良かった。
オバチャン前面に出して、座ったら?ねえそうしなよって。
そんなコミュ障気味の私ですが、障害を持つ人には割合と声をかけることができる。特に視覚障害の方は、助けを必要としていると思う。電車内では、今いるのが何両面なのか聞かれたことがあるし、電車のドアが開いて降りたらいきなり柱が目の前にあって、戸惑っている人がいた。
見つけたら、あえて1メートルくらい離れた所から大きめの声で、声をかけながら近づく。前述の柱に当たってしまっている人には、“どちらにいきますか~”って。私なら、いきなり耳元で話しかけられたら嫌だから、頑張って離れたところから声を出す。
いいです、とか、大丈夫なんで、とか言われたことはない。きっと助けを必要としているから。
近年、車イスユーザーのSNS発信に炎上するニュースをよく見る。若い頃なら、炎上するのが気の毒、とか、発信者ももっと言葉を選べばいいのに・・・とか思っていた。
けれど、考えが間違っていたと思う。炎上はやり過ぎかも知れないけれど、インパクトのある表現で声をあげるのは、とても意味のあること。良心に頼っていては、改善への歩みが遅すぎる。
一見、行き過ぎじゃないか、という発言や行動が議論を生み、制度につながることはある。子供が二人いて、「ベビーカーを畳め」はナンセンスだけど、そういう時代あったよね。
どの時代にも、優しく声をかけて手伝ってくれる人はいるけれど、制度や設備も確立するために、発信者となる当事者(障害者)がいる。
障害者も、子連れの親子も、弱いとか、かわいそうではなく、手をさしのべるべき存在との認知が拡がればいいのかな?当たり前に自然にできるようになりたい。